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この特集では田中工業「黒須田守」をはじめとした5名のライターから競艇にまつわるさまざまなレポートをお届けします。
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 ボートレース特集

哀涙

SANY1060  展示を終えてピットに戻ってきた岡部大輔が、苦笑いを浮かべた。
「失敗しちゃいました」
 スタート展示で、中野次郎にインを奪われたのは、緊張のあまり、だったのか。それとも、単なるミスだったのか。さっそく、小野勇作が駆け寄って、何事かをアドバイスする。神妙に話し込む二人。その後、岡部はペラ調整室に入っていく。中には三井所尊春がいた。話しかける岡部に、三井所は「大丈夫! 大丈夫! 大丈夫!」と、カツを入れる。岡部は、スタート展示の失敗に泣きを入れたのだろうか。しんとし始めたピット内に響くほど、三井所は大声で岡部を励ました。岡部は、ひとつ頷いて、ペラ室を出た。
 優勝戦が刻々と近づいて、仲間たちが岡部に送るのは、もはや笑顔ではない。最高の闘志。最高の気合。この優勝戦は、佐賀支部全員で戦うのだ。岡部の顔に、決意が滲んでいた。

SANY1065  しかし、岡部はあまりに重い時間を過ごしていた。一人でいると、心が押しつぶされる。かといって、優勝戦のメンバーや佐賀支部の仲間の中にはいられない。気づくと、岡部は整備員控室で、整備士さんの輪の中にいた。デビュー時からお世話になり、かわいがってもらった人たちなのだろう。岡部の気持ちを慮ってか、整備士さんたちも特に口を開かない。ただ、優しい目で岡部を見つめている。岡部は、その視線を意識しているのかどうか、一点を見つめてじっと動かない。
 優勝戦のピットは、いつもと同じように、静寂に包まれている。物音がほとんどしないなかで、時は流れていく。岡部はその時間を長く感じただろうか。それとも、アッという間だっただろうか。
 16時25分。岡部は静かに立ち上がった。出走控室へとゆっくりした足取りで向かい、そっとトビラを開いて中に入る。すぐに乗艇準備の合図。数分後、ブザーが鳴って、控室を出る。白いカポックを着た岡部が、他の5人とともに現われた。1号艇の選手は、整列した際に「敬礼!」と掛け声を発する役割を担っている。岡部の太い声がピット内に響く。待ったなし。岡部にとっての試練の時間は終わりを告げ、しかしもっともっと大きな試練に立ち向かう時を迎えた。

SANY1070  ピットアウト。インを取り切る。
 スタート。コンマ05のトップスタート。
 真っ先に1マークに到達。先マイ。
  ここまでの課程に、どんな瑕疵があっただろう。
 岡部は、誰もが逃げ出したくなるような状況下で、しかも今までにこれ以上の局面を経験したことなどなかったなかで、素晴らしいレースを見せた。誰が、岡部のこの走りにケチがつけられよう。岡部が浴びるべきは、賞賛しかない。よくぞ、この走りができた! それ以外にかける言葉などありえないと、僕は信じる。
 しかし、結果は非情だった。1マークを回った瞬間、中野次郎に先んじられた。2着は悪い結果ではないが、岡部はただただ、肩を落としてピットに戻ってくるしかなかった。
 荻野裕介、福島勇樹、福来剛、金田諭、石塚久也ら関東勢のバンザイを、岡部はどんな思いで眺めただろう。それとも、視界に入れる余裕などなかったか……。中野がウイニングランに向かったから、ピットにはいちばん最初に戻ってくることになる。優勝戦以外ならば、勝者の行動である。しかし、このときばかりはあまりに残酷な、誰よりも早い帰還だった。

SANY1074  真っ先に出迎えたのは、やはり小野勇作だった。うんうんと頷きながら、ありったけの優しさを込めた声で、「よくやったな。よくやったぞ」と岡部の走りを称えた。そして、そっと肩を抱く。その後ろでは、森永淳が世界中の慈愛を集めたような目で、岡部を見つめていた。このプレッシャーの中、よくインを取り、よくスタートを行けたな。森永の目が、そう語っていた。本来なら、俺の役割だったのに……そんな思いも、あったかもしれない。
 岡部の健闘は、多くの選手をも感動させたようだった。今日はこの後、打ち上げが行なわれるということで、ほとんどの選手がピットに残っていた。次々と、岡部に近寄り、声をかけたり、肩を叩いたりしている。そのすべてに、岡部は頷いて応えていた。声はなかった。
 ヘルメットを脱ぐと、岡部の顔には精気がなかった。首を傾げる。やはり、言葉は出ない。無言で、ただただ悔しさを全開にしている。溜め息すら出ない。勝てなかった、その事実をひたすら受け止め、向き合っているようだった。
 カポックを脱ぎ、モーターの返納に向かう。報道陣がコメントを取ろうと近寄ると、岡部はひとつ首を傾げて、「握りすぎた」と敗因を語った。これもまた、賛辞を送るべきことであろう。握れずに、中途半端なレースで負けたのではない。全力で勝利をもぎ取りにいったのだ。それが敗北を呼び込んだ要因であろうと、力の限りに戦ったことは誰にも責めることはできない。
 岡部が、もう一度、首を傾げる。岡部にできることは、もうそれしかないのかもしれなかった。表情に、力はなかった。

SANY1081  ここから先を、どう書いたらいいのだろう。
 モーター返納のために整備室に足を踏み入れた瞬間のことだった。
 岡部の顔が、とてつもない歪み方をした。
 もはや、感情を抑えるすべを、岡部は完全に失っていた。
 涙、涙、涙……。
 あたりをはばかることなく、泣きじゃくる岡部。周囲は、声を失うしかなかった。
 ペラを外し、モーターの後点検をする間も、涙は止まらない。佐賀支部の仲間がそれを手伝うなか、岡部はただただ泣き続けた。少し離れたところで、松江秀徳が岡部を見つめている。それは、あまりにツラい、潤んだ視線であった。後輩の奮闘、酷というしかない結果。岡部の涙の意味を考えれば、松江はそうすることしかできなかっただろう。おそらく、岡部はその視線に気づいてはいなかった。岡部はただただ哀しみに包まれ、松江はただただ痛々しい思いで見ているしかなかった。
SANY1086  最初に声をかけたのは、やはり小野勇作である。「泣け、泣け。こういうときは、思い切り泣くんだ」。そういって、岡部の肩を後ろから揺すった。岡部を救おうとしたその言葉を、僕は忘れないだろう。小野の男気があったから、岡部はこれだけの戦いを完遂できたのだ。真実は知らないが、僕はそう信じる。新鋭王座決定戦、影のMVPは間違いなく、小野勇作である。
 その小野の優しさ、またそれをきっかけにしたかのように次々とかけられる他の選手の気遣いが、岡部の涙をさらに溢れさせる。もう、たまらなかった。気を緩めたら、取材者としての理性などぶっ飛びそうだった。時間が経つごとに、さらに滂沱と流れてくる岡部の涙。こんなにツラい優勝戦のピットは、初めてだった。
 さらに泣いて泣いて、泣き尽くして、岡部は控室へと消えていった。その肩を、佐賀支部の仲間が優しく抱えていた。全員の後姿が、泣いていた。

SANY1059  岡部大輔よ、泣け。ひたすら泣け。
 その涙は、君が悔いのない戦いをしたという証なのだ。自分にできること、そのすべてを果たしたからこそ、流せる涙というものがある。今、君が止めることのできない涙は、間違いなくそれである。地元の期待をその小さな背中にすべて背負い、戦い抜いた岡部大輔は、最高に輝いている。これまでの実績を考えれば過分だったかもしれない責任を、迫り来る重圧に耐え抜いて、君は背負い切って見せたのである。
 たしかに、敗れた。結果という部分では、責任を果たし切れなかったのかもしれない。だから、今日は気が済むまで泣けばいい。その涙が、岡部大輔を強くする。歓喜の涙は、悲痛な涙を流し切った後に、ようやく涙腺まで辿り着くものである。そう、今日の涙は、いつか男泣きに泣くために、必要な涙なのだ。
 岡部よ、お疲れ様。今日の君は、最高に美しかった。

SANY1089  他の優出選手、また彼らのファンや彼らの様子を知りたい方には、お詫び申し上げたい。特に、優勝した中野次郎には、その歓喜の様子をほとんど伝えることができずに申し訳なく思う。GⅠ初優勝、そして地元・平和島の総理杯への切符を手にしたこと、心から祝福します。レース後のピットでの笑顔は、最高でした。井口佳典も、丸岡正典も、前野竜一も、そして中村有裕も、素晴らしい戦いをしたと感動しています。また、84期、85期のみなさん、最後の新鋭王座、お疲れ様でした。これからはさらに上の舞台での活躍を願っています。
SANY0027  しかし、今日という日は、岡部大輔のためにあった、僕はそう信じている。
 偉大なる敗北がある。敗れて得るものがある。いや、哀しい敗戦を経験し、それを受け止めなければ得られないものもある。そんな真理を教えられた、新鋭王座決定戦だった。教えてくれたのは、もちろん岡部大輔である。(黒須田守)


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