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この特集では田中工業「黒須田守」をはじめとした5名のライターから競艇にまつわるさまざまなレポートをお届けします。
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新たな地平へ――菊地孝平④

 拍手が響いた。12Rが終わったばかりのボートリフト。地元・静岡から唯一の準優進出となった坪井康晴が、勝利という結果で背負った期待をすべてかなえてみせた。真っ先に出迎えて、手を打ち鳴らしたのは、菊地孝平。本来なら、自分がこの舞台にと心に誓ってグラチャンに臨んだ男だった。
 坪井が先頭でゴールしたとき、まず頭に浮かんだのが、菊地はどんな心境で仲間を迎えるのか、ということだった。自分がくじけたとしたら、この男に勝ってもらいたいと思うはずの存在が、坪井であるのは間違いない。82期の同期生。登番も1番違い。言うまでもなく、同県の親友。誰よりも気にかかる存在の一人であるのが、坪井なのだ。だが、グラチャンが開幕する前、まさか「ツボが勝てばいいや」などと考えていたはずがない。自分が静岡の代表として、地元SGで堂々と凱歌を奏でることだけをイメージして、通い慣れたピットに入ったはずだ。その野望が挫折してしまった翌日、菊地は何を思い、坪井のレースを見るのだろう。そして、勝利した坪井を祝福するのだろう。ひょっとしたら、余計な詮索かもしれないが、僕はそんな思いにとらわれてしまっていた。
 坪井の勝利を、誰よりも早く祝福したのは、菊地孝平、その人だった。坪井がピットに近づくと、両手を挙げて、喜びを表わす。坪井は当然、にこにことそれに応えていたが、気になったのは、菊地の表情。これも当然と言っていいだろう、菊地は心からの笑みを坪井に向けていた。本当に、本当に嬉しそうだった。
 服部幸男、野長瀬正孝、佐々木康幸の静岡勢も、それ以外の表情など世界のどこにもないというほどに、目を細めて坪井の健闘を称えた。輪の中心にいる坪井は、時に頭を下げながら、穏やかに笑っていた。もともとが派手なアクションをするタイプではないだけに、ひたすら静かに顔を上気させていた。そんななか、菊地はいつまでもいつまでも、笑っていた。ただただひたすらに、坪井の快挙を自分のことのように歓んでいたのだ。

2006_0623_01_417  9R前、カポックを着ている菊地に装着場でバッタリと会った。その時間まで、試運転を繰り返していたのだ。今日は不本意な成績に終わってしまっただけに、意地を見せつける瞬間は明日に持ち越し。そのために、菊地は今日も、パワーアップに必死だった。まだグラチャンは終わっていない。そこにレースがある限り、精魂を傾けなければいられない。
 お疲れ様です。そう声をかけると、菊地は同じ言葉を弾むように返した。何かを吹っ切ったような笑顔とともに。もしかしたら、昨日の痛手が一皮剥ける契機になったのではないか、と思った。負けて覚える将棋かな、という。あの瞬間、世界一の悔しさを噛み締めていた菊地は、それによって新しい何かをまとい、不要になった殻を脱ぎ捨てたのだ。そうでなければ、あんなに爽快な笑顔を、フライングの翌日に見せられるはずがない。
 坪井に向けた笑顔を見て、僕はさらにその意を強くした。優勝して、それがかなえられたら、いちばん良かった。それはかなわなかった。だが、タイトルにした「新たな地平へ」飛び立つ助走は、この5日間で果たしてみせた。実際は、菊地自身はそんな思いを抱いたはずがないし、どこかにまだFへの悔恨をくすぶらせているだろうが。

 坪井のモーターを、インタビューなどで忙しい彼の代わりに整備室へと運びながら、菊地はなおも涼やかな笑顔を見せていた。それを見ているうちに、なんとなく「今日は声をかけるのをやめよう」と思った。最終日の明日、菊地はどんな心を抱えて迎えるのか。それを改めて明日、確認してみたいと思う。……などと考えながらピットを出ようとしたら、宿舎へ帰る菊地が突き抜けた笑顔を向けてきたのだった……。(PHOTO/中尾茂幸 TEXT/黒須田守) 


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