午後のピットは、午前中と比べてもさらに落ち着いた空気になっているようだった。
昨日までのピットは「本当に3月なのか!?」と疑いたくなるほど寒かったのに、少しずつ暖かくなってきているので、その印象を強くしている部分もあるのだろう。また、そうした気候の変化もあるためか、選手の作業は「ペラ調整」に集中しはじめているので、装着場付近の選手が減っている。そのため、焦燥感の少ない空気になっているのも確かなはずだ。
そんなことを感じながら7Rを迎えたが……、このレースではなんと、1号艇の谷川里江がフライングを切ってしまった。ちょうど『BOATBoy』女子リーグ担当の森喜春記者と、「ここで逃げ切れば、そのまま優勝するかもしれない」「勝率29.1%とはいえ、前節で作間章がオール2連対で優勝したときから噴いていたモーターだから」といった話をしながらレースを観ていたときだったのだから、ショックは大きかったのだ。
ピットに引き上げてきた谷川は、口元に笑みを浮かべているようにも見えていたが、これは苦笑がそのまま固まってしまったものにも近かったのだろう。同期の定野久恵に話しかけられたときには、もう少し自然な感じの笑いも見せていたが、定野と別れて一人で引き上げていく小さな後ろ姿はあまりに切ないものだった。
この7Rでは、昨日のレースにおいて、不運な部分がありながらも賞典除外となっている渡辺千草が勝利している。
レース後の渡辺は複雑な表情を見せていたが、これで渡辺は、連日の“素直に喜べない勝利者インタビュー”を受けることになったのだから無理もない。
この公開インタビューにおいて渡辺は、自分自身もスリット前で放っていたことを話して、「(ちょっとした風の吹き方で)ぜんぜん違っちゃうんですね」「風が吹いている日はぜんぜんわかんないんで」とも言っていた。
今日のレースにおいては安定板こそ用いられなかったものの、風速3メートルの風(=7R時)は、数字以上に強く感じられ、レースを難しくしているわけである。谷川にしても、初日からばっちりスタートが見えているようだったからこそ、そのFには驚かされたのだ。
この後、ピット内で渡辺と谷川が顔を合わせたときにも、谷川は“やっちゃいました”というような手振りを見せて渡辺に声を掛けていき、渡辺は“今日の風なら……”といった感じで慰めの言葉を掛けていた。
仕方がない――といった言葉は、競艇ではタブーなのかもしれないが、選手同士だからこそ理解し合える部分はあるものなのだろう。
ピット内の空気が落ち着いているといっても、熱心な作業をする選手がいなくなっているわけではない。また、宇野弥生についてを書いていることが多いので、「気になる選手は宇野だけなのか?」と誤解されているかもしれないが、決してそんなわけではないのである。
この津競艇場のピットに集まっている全選手が光り輝いて見えるものだし、そのなかでもとくに「気になる選手」というのはやはり、何人かは出てくるものだ。私という人間は、嘘をつけない性格の男なので正直に書くが、80~90%はアスリートとしてのオーラといえるようなものが気になり、残りの10~20%には個人的なタイプも影響してくる。まあ、これは当然のことで、私などが新鋭王座に行けば「同性ながらもカッコいい奴だな」と思うこともあるし、女子王座に行けばやはりは「あっ、かわいい」とか「素敵だな」とか感じる部分も出てくるわけなのだ。人間として自然な反応といえようが……、そんな一人が永井聖美である。
永井に関していえば、ここ3年の女子王座のほかに一般戦のピットなどでも見かけているが、見るたび違う印象を受ける選手なのである。
そして、今年の女子王座ではとくに、いろんな意味でジャストミートしてくる。
毎年キレイになっていくなあ……というのも確かにそうだが、アスリートとしてのオーラも年々強くなってきている気がするのだ。そうした点については言葉にしづらい部分だが、そうした何かは、仕事をしているときの顔つきにもはっきりと出てくるものだ。
今日の永井に関していえば、4Rの1回乗りでありながら、午後になってもモーター調整を続けており、12R前にも試運転に出て行ったのだから、本当に充実した一日を過ごしるようだった。
それも、どんな時間帯に見かけても、常にいい表情をしていたのだから、心身・機力ともにいい状態になってきているとも判断できよう。
さて、「気になる選手」といえば、やはり宇野弥生についても触れておかなければならないだろう。
今日の宇野がどのような午後を過ごしていたかといえば、何度となくペラ調整と試運転を繰り返していたものだった。その際、ペラ小屋と待機ピットの往復においては、全力ダッシュに近い感じで走っている姿が1度や2度ではなく目撃されている。
そう書くと、落ち着いたピットにおいて、一人だけ冷静さを失い、慌しく駆け回っていたのかと思われるかもしれないが、そうではない。たしかに時間のムダはつくらないように駆け回っていたのだが、昨日までに比べれば、希望の兆しが見えてているのが窺える明るい表情になってきていたのだ。
私は、こうして毎日、宇野弥生の記事を書きながらも、これまで一度も声を掛けてはいなかった。それは、これまでの宇野が悲壮感といってもいいような色を見せていたからであり、懸命の作業のジャマをしたくはなかったからである。それに加えて……、不惑の私は、意外にシャイなのだ。そんな点においては、好きな女の子に対しなかなか声を掛けられない高校生とも大きくは変わらない。
しかし、実をいうと私は、NIFTY競艇特集主宰である黒須田守が決めた“非情の斡旋”によって、ピットリポートを担当するのは本日までとなり、この記事のUP直後には即日帰郷することが決められているのだ。
要するに、今日、声を掛けなければ、一生、彼女と言葉を交わす機会はないかもしれないのである。
だからこそ私は勇気を振り絞って声を掛けてみた。
「宇野選手……」
「……はい」
私の声に対して振り向いてくれた彼女の微笑みは、ピットに降り立った天使のようだった。
……と、話がずれかけている気もするが、そこで私は、自分がNIFTYで追っかけ記事を書いていることを告白したうえで、「足はどうですか?」と冷静に質問している。さすがは記者なのだ。
「レースのあと、だいぶ良くなってきています」
と、変質者をあしらうようにではなく、やさしく答えてくれた彼女……。
「実をいうと、僕は今日で帰るんですが、明日、あなたが、自分の誕生日に勝利してくれることを遠い地から祈っています」
こちらがそうして続けてみると、
「そうなんですか」と寂しそうな目をして、「ご期待にこたえられるように頑張ります!」とも返してくれた。
出会いがあれば、別れはあるものだ。
一部、誇張はあるものの、大方のところはそんな感じだった。
「早く帰れ!」という声も聞こえてきそうなので帰ります。
それでは頑張ってください、弥生さん。
(PHOTO/池上一摩 TEXT/内池久貴)