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この特集では田中工業「黒須田守」をはじめとした5名のライターから競艇にまつわるさまざまなレポートをお届けします。
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THEピット――爽

2009_0726_0504  11R前、優勝戦の選手たちがボートを展示ピットに移動させるなか、湯川浩司だけは試運転係留所で何か作業をしていた。長嶺豊さんがじっと見つめており、隣で一緒に様子を見守る。
「ゼロゴーにしますわ。イチゴーでも伸びない。伸びないイチゴーはただの舟やから」
 一日、チルト1・5度の調整を続けたが、思うように伸びは来なかった。だから、0・5度に下げる、という。
 ものすごい勇気だと思った。
 チルトを下げる作業をしても、もう試運転はできない。そのまま展示ピットに移動しなければならないのだ。その段階になって、ここまで積み上げてきたものを捨てようとしている。生半可な覚悟ではできることではない。
「クロちゃん、寂しそうな顔したって、しゃーないで」
 突然、言葉が僕に向けられた。まあ、あちこちで跳ねチルトを煽りに煽っている我々だから(湯川にもそのテーマをぶつけたことがある)、湯川からは「えーっ、下げんのぉ?」てな顔をしていたように見えたのだろう。だが、その実、僕は湯川の勇気に感動していたのだ。
「クロちゃんのお腹があれば、大丈夫や」
 長嶺さんが僕の出っ腹をぽんぽんと叩きながら言う。
「クロちゃんのお腹がチルト1・5度や」
「いやいや、1・5度じゃきかない。チルト3度や」
 優勝戦の直前、そんな会話をして大笑いできたことを、本当に幸せだと思う。

 展示が終わって、ベスト6が出走待機室に戻ってくる。いったんカポックを脱いで、整備用工具を整備室のほうへ移動する選手たち。
 湯川がおどけながら言う。「ゼロゴーで感じええわ。出足がまるっきり違う」。そりゃそうやろ!と突っ込むところなのだろう。湯川はおかしそうに笑って、そのまま控室へ向かった。
2009_0726_0497  田中信一郎も、待機室を出たときにはとびきりの笑顔を見せていた。戦前、肩に力が入ることはない、と言っていた信一郎、たしかに優勝戦を目前にしてもリラックスした雰囲気である。
 緊張が心配された徳増秀樹も、その時点では涼しい表情をしていた。汗をふいたタオルを頭に置いたまま、すなわち「いい湯だなスタイル」でとことこと歩を進める。平常心かどうかはともかく、腕が動かなくなるようなカタさはいっさい感じない。ただ、チャーリー池上カメラマンがレンズを向けると、ちょっとだけ意識したような表情となった。こんなタイミングで写真を撮られるのは少し意外だったのか。だが、これがSG優勝戦である。
2009_0726_0530  時間は前後するが、控室にいったん戻っていた選手たちが待機室に向かうとき、たまたま菊地孝平と西島義則が、まったく違う方向から歩いて来て、待機室手前で一緒になった。
「もうちょっと速いと思っとったけどのぉ」
 西島が、おそらくは展示でのスタートタイミングについて、勘よりやや遅かったらしいことを菊地に話しかけた。
「いや、僕はちょうどいいと思いましたよ」
「ほぉーかぁー」
「あー……、でもちょっと速いと思ったかなぁ?」
 本番でも確実にコースを獲り合う両者が、こうして情報交換をしている。……いや、ちょっと待て。もしかしたら、これは駆け引きか? 西島は百戦錬磨だし、菊地はなんだかんだで言い直しているし。だとするなら、二人の会話は相当に深い。見た目には、爽やかに会話を交わす二人からは、水面下の蹴飛ばし合いなど想像もつかない。だが、選手たちは我々が考えるよりずっと奥深いところで戦っているのかもしれない……いろいろ考えているうちに混乱してきたので、とにかく素敵な場面に遭遇した、と思いこむことにした。
2009_0726_0060  そうしたなか、一人だけただならぬ雰囲気を感じさせたのは、濱野谷憲吾だった。目つきがキツい。唇がキュッと横一文字に締まっている。ときおり尖ったりもする。歩くスピードが速い。視線をいっさい下に向けない。優勝戦直前、こちらから声をかけようと思える選手などほとんどいないけれども、濱野谷の醸し出す空気には近寄ることさえ許さないトゲトゲしさがあった。濱野谷のなかで何かが変わってきているのではないか、そう思った。

 レースは菊地孝平の圧勝である。インからコンマ06のスタートを決め、余裕をもって先マイを放った。他の5選手はなすすべがなかった。だからだろう、レース後、敗れた選手からも爽やかさが立ち上っていた。
 田中信一郎は、展示後と同じようににこやかに笑っていた。もちろん、そこには敗戦への苦笑も含まれている。「スタート行き切れんやった~」と松井繁らに笑いかけたのは、もちろん悔恨を表現したものだった。それでも、田中からは充実感が伝わってきたような気もした。シンガリ負けではあるけれども、何らかの手応えをつかんだのかもしれない。
 湯川浩司も同じように笑っていた。その笑い方、悔しがり方が田中のそれとあまりに似ていて、同門は仕草までも受け継ぐのか、なんてことを考えたりもした。もちろんそんなわけはないのだが、湯川にも充実感はあったのだと思う。レース直前のあの勇気、あれがあっただけでも、結果は不問にしていいと確信している。
2009_0726_0378  徳増秀樹からは、ちょっとだけ疲労感が伝わって来た。ピットに上がって来て、首をかしげたのは僕が見た範囲では徳増のみ。初めてのSG優勝戦、どこかに消化不良なものが残ってしまったのかもしれない。それでも、服部幸男らに声をかけられて、徳増は目元に微笑を浮かべていた。そのときに実感があったとは思わないが、徳増の中にひとつの経験としてスキルが積み上がったのは間違いない。
 そうしたなか、やはりただ一人、笑顔がなかったのが濱野谷憲吾だ。リフトに収まったとき、出迎えた関東勢に何事か語りかけ、飯山泰や中野次郎が爆笑していたりもしたのだけれど(何を言ったかは聞こえなかったが、「また2着だよ~」の類だと勝手に想像する)、濱野谷自身はピットに上がってきてからは、まったく笑っていなかった。わかりやすい態度としては見せていないが、全体の雰囲気として悔恨に苛まれているという感じか。やはり濱野谷は変わった、と思わざるをえない。関係ないけど、モーター返納を同期の白水勝也が手伝っていたのには、小さく感動した。

2009_0726_0427  菊地孝平は、ただただ充実感のある笑顔を振りまいていた。そりゃそうだろう。完璧な優勝である。押さえようとしたって、押さえることのできない笑顔が沸き上がってきて当然。ただでさえ爽快感ただようピットは、菊地のウィニングランからの帰還でさらに爽快度が増した。
 菊地は、ピットに上がるとすぐさまライバルたちにお礼を言って回っている。湯川が、田中が、笑顔で祝福の言葉をかける。進入を争った西島も、おめでとうと言って笑った。徳増は待ちに待ったという感じで菊地に駆け寄り、ガッチリと握手を交わしていた。濱野谷も、目だけで笑って、祝福していた。
_u4w0424  菊地の背筋がピンと伸びる。松井繁が駆け寄って、菊地を称えたのだ。王者の言葉は、やはり重いのだろう。服部の後輩であるということも意味をもっているのだろう、松井は心から菊地に拍手を送っていた。もう一人、服部の前でも菊地の背筋は伸びた。同県の先輩が、腹の底から嬉しそうに笑っているのだ。その笑顔は、最高のご褒美のひとつだったと思う。心なしか、菊地の表情が湿っぽくなったように思えた。
 その後、菊地は地上波テレビのインタビューを受ける。それが終われば、表彰式に向かわねばならない。だが、もう一人、どうしても菊地に祝福の言葉をかけなければならない男がいた。それまでにも軽い言葉は交わしていたが、もっともっと濃厚に喜びを分かち合わねばならない男。インタビューと表彰式のわずかな合間を狙っていたかのように、その男は菊地に駆け寄っていった。
_u4w0307  坪井康晴の顔を見た菊地は、それまでの凛とした表情を一気に崩した。まるで、そのときにようやく、心からの歓喜がわき出てきたかのようだった。坪井も、目をきゅんと細めて、菊地との距離を詰めていく。菊地は、矢も楯もたまらず、坪井の体に自らの体を預けた。坪井が菊地を受け止め、二人は腕を回しあった。固い固い抱擁。静岡82期三羽烏が、いま羽を交える。「やった、やったよ!」。菊地の口から、ようやく喜びがこぼれ落ちた。

 最後に、書いておきたいことがある。モーター返納を済ませた西島義則が、装着場にある水道で手を洗おうと蛇口をひねると、そこに服部幸男があらわれた。服部も手を洗おうと蛇口をひねる。
「お疲れ様でした」
 最初に口を開いたのは服部だった。服部の目には、偉大なる先輩への敬意が確実にあった。
 西島は苦笑しながら、少しネガティブな言葉をこぼした。すべてをハッキリは聞き取れなかったが、わかった範囲で言うなら、もう若いモンには勝てないな的な、あるいはコース獲るだけじゃウンヌン的な、そんな言葉だった。
2009_0726_0284 瞳には笑顔をたたえたまま、服部の頬が締まった。そして、キッパリと言った。
「いや、凄いですよ。本当にいいレースだったと思います。西島さんは本当に凄いですよ」
 西島の目が細くなったのは、もしかしたら照れ笑いだったか。だが、服部は衒うことなく、先輩への敬意を表した。それは、彼らにしかわからない、濃厚な会話だったと思う。(PHOTO/中尾茂幸 池上一摩 TEXT/黒須田)


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